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【アラベスク】  第17章 来し方の楔



第4節 白梅 [4]




 自分が好むモノだけを享受しようとしていた織笠鈴という少女。自分の思い通りにならないと不貞腐れ、世間に背を向けた少女。物事の責任は他人に押し付け、自分は悪くないと信じきっていた少女。
 澤村にフられ、周囲の嗤い者になったのは里奈(りな)のせいで―――
 違う。
 否定する。
 私は違う。私は、織笠鈴とは違う。だいたい、私は自殺なんて考えた事もないし。
 自殺しなければ、同じではないと言えるのか?
 私はどうなのだ? 私は――――
 頭の中が混乱しそうで、思わず瞳を閉じる。そうしてゆっくりと開いてみる。
 あぁ、考え事は増えるばかり。
 ぼんやりとする脳裏に甦る、今朝、出掛けに起きてきた母の、寝ぼけたような声。
「で? アンタ、このまま三年に進級するワケ?」
 このまま、何の目的もないままに。
 進路も決めなくちゃならないんだよな。
 解決しなくちゃならない問題が山積みって状況には、変わりがないんだよなぁ。
 桃色の花びらがヒラヒラと揺れる。それを恋焦がれるかのように、白い華が後を追う。
 それはまるで、誰かが誰かを追いかけるかのように。





 智論(ちさと)は、驚かせないようにそっと声を掛けた。
木崎(きざき)さん」
 呼ばれて振り返り、木崎はその姿に頬を緩める。
「智論様、お久しぶりです」
 ガラス越しに庭を眺めていたその身体の向きをゆっくりと変える。
「いつこちらに?」
「さっきよ。午前中は三重にいたの」
「三重?」
「えぇ、津市の方で梅祭りをやっていてね」
「おや、そうなのですか。三重はここよりも暖かいからもうとっくに梅の盛りは終わっているものかと。そう言えば、庭の梅もまだ見ごろですよ」
 ガラスの向こうへチラリと視線を向ける。その表情はとても柔らかくて、きっと、ずっと昔からこんなふうに庭を眺めていたのだろうと、智論の心もゆったりと(ほぐ)れる。
「先週少し寒が戻りましたから、まだ蕾もあるようです」
「そのようね。さっき幸田さんに教えてもらったわ。後で見てみる」
「微かに香りもしますよ」
「本当? 嬉しいな。私、ココの白梅大好きなの」
()でてくださるのは、もう智論様くらいですね」
 智論は曖昧な笑みを浮かべる。
「木崎さんがいるじゃない。それに、聖美(きよみ)さんも見たがってた。でも忙しそうで、今年の春も来れるかどうか」
「相変わらずですね」
「うん。でもこのご時勢、忙しい事はアリガタイ事だって。木崎さんがいてくれるから、この家の事も家族の事も、それに庭の事も安心して任せられるって言ってた」
「私は何の役にも立ってはいません」
「そんな事ないわ。この家の庭だって木崎さんが居なかったら」
 智論はふと言葉を切り、遠くを見るように視線を投げた。
「この庭は本当に勉強になるわ」
 その言葉に木崎は瞳を細めた。だが、智論の言葉にその表情を固くする。
「慎二はいるかしら?」
 表情を曇らせた相手に、智論も笑みを消す。
「また出かけているの?」
「相変わらずで」
「そう」
 それっきり、何も言わない。
 諦めたわけではないが、今の智論には為す術はない。
 どうすれば、昔の慎二に戻ってくれるのかしらね。
 庭へ視線を移す。
 私では、やっぱりどうにもできないのかしら?
 表情の虚ろになってしまった相手に木崎は躊躇い、しばらく逡巡した挙句、そっと口を開いた。
「その、慎二様の事なのですが」
「なぁに?」
 視線を庭へ向けたまま答える。
「最近、少しだけ変化がございまして」
「変化?」
 ピクリと反応する。その過敏な態度に、木崎は慌てて付け足す。
「別に大きな変化と言うわけではありません。本当にごく些細なもので」
「何? どうしたの?」
 乗り出す智論を落ち着かせるように、木崎は両手を広げて押し戻す。
「お帰りになる時間が、少し早くなったような気がするのです。あ、いや、日付を跨ぐのは今まで通りなのですが」
「帰る時間?」
「はい。あの、よく寄られる繁華街の店には相変わらず出入りしているようなのですが、それこそ陽が昇る頃にお帰りになるというような事は、ほとんどなくなりまして」
「へぇ、そうなんだ」
 智論は軽く驚く。
 本当に些細な事だ。夜遊びに浸っているという現状には変わりない。だが、それでも変化は変化だ。
「どうしたのかしら? 店員と仲違(なかたが)いでもしたかしら? あら、でもそれなら店を変えればいいワケだし」
 顎に手を当て、上目遣いで考え込む智論を、これまた上目遣いで木崎が見上げた。そうして躊躇いがちに口を開く。
「それは、あの、たぶん、あの方が影響なさっているのかと」
「あの方?」
 眉を潜めて聞き返す智論に、木崎は意を決して告げた。
「大迫美鶴様ですよ」
「美鶴ちゃんが?」
 目を丸くし、しばらく呆然としたように木崎を見つめていた。だがやがて、二度ほど瞬きをしてから視線を動かした。
「そう、そうなんだ。美鶴ちゃんが」
 白梅が、風に揺られてヒラリと舞った。


------------ 第17章 来し方の楔 [ 完 ] ------------





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